恋魔法譚外伝 -盲人たち- 前編


 扇風機の回る音に、僕は目を覚ました。フローリングの床がひんやりと気持ち良い。
 いつの間に寝ていたのだろうか。寝ている間は感じなかった熱気が、じんわりと体中を包み込む。着ているタンクトップはいつの間にか汗まみれだった。
「頼斗よりと、また寝てたの?」
 母が不機嫌そうに言う。寝ている間に帰っていたのか。この暑いのに仕事とはご苦労なことだ。
「いいだろ、夏休みなんだし」
 僕は寝転んだまま答えた。立ち上がることすら嫌になる暑さだ。神様ってのはどうして夏なんていうものを作ってしまったんだろう。
「暇なら來華らいかちゃんのお散歩行ってあげなよ」
 母はテーブルで書類を開きながら言った。
「こんな暑い日に出かけたがってるの?」
「分かんないけど。今日もご両親いないみたいよ」
 そうか。僕は指で床を叩いてリズムを刻んだ。それなら、行ってやらないとな。
 頭の近くに置いておいた携帯を手に取り、開く。短縮ダイヤルで2秒もかからずに発信音が流れ始める。僕は起き上がり、床の上に正座した。
 彼女はすぐに電話に出た。
「こんにちは、頼斗君」
 いつも通りの声、いつも通りの挨拶。僕は思わず、ふっと笑ってしまう。
「相変わらず他人行儀だな」
「そうかな」
 彼女の声は、電話越しでもふわふわとしている。声は人を表すのだろうか。彼女の声は、彼女自身を表しているようだ。ふわふわとして、危なっかしい。つかんでいないと勝手に転んで怪我してしまいそうだ。
「今日、どっか外に行く?」
「お散歩行きたいな」
「ああ、いいよ」
「じゃあ、お願いします」
 顔がにやけているのに気づき、僕は頬を撫でた。いけない、いけない。つい感情が顔に出てしまう。母親に見られたら何を言われるか分からない。
「おう、今から迎えに行くよ」
 僕は通話を切り、立ち上がった。汗まみれのタンクトップとズボンを脱ぎ、着替えると気分も少しばかりすっきりとした。
 鏡越しの自分の姿に納得し、鍵を手に取った。
「じゃあ、行ってくる」
「はーい」
 母の声を聞き家を出る。外はやはり暑い。ぎらぎらとした太陽の光や、むわむわとした湿気。汗が滲んでくる。
 それでも來華のためだ。僕は彼女の家に向かって歩き出した。

 來華は小学六年生の時に近所に越してきた。
 仲良くしてあげなさい、と母に言われたが当時の僕には抵抗があった。
 彼女は僕と同じ学校に転入してきたのだが、転入初日から彼女は弱者として扱われることが確定していた。彼女は足が弱く、車椅子に乗っていたのだ。言い方は悪いが、人の助けを借りなくてはうまく生活できない種類の人間であった。
 彼女と仲良くすれば、何か災いが降りかかってくるかもしれない。小学生の僕はそんなことを恐れていた。
 だが近所に住んでいる以上、接触を避ける事は不可能だった。
 彼女の母と僕の母は知らない間に仲良くなり、果てには登校時の付き添いの役に、勝手に僕を推薦したのだ。
 それ以来僕たちは二人で行動している。

 來華の家の前に到着し、僕は額の汗を腕で拭った。やはり暑い。タオルでも持ってくるんだった。息を整え、インターホンを押した。
「はーい、すぐ開けるね」
 インターホン越しの彼女の声。心臓が小さく跳ねた。
「ああ、急がなくていいよ」
 なるべく普通を装って返事をする。インターホンの通信が切れる音がして、僕はふう、と息をついた。
 セミ達がわんわんとうるさい。家の陰に入ってもやはり暑かった。セミの鳴き声が暑さに拍車をかけているみたいだ。
 かしゃり、と鍵が開く音に意識を引き戻される。僕はドアをそっと開けた。來華の姿が目に映る。
「いらっしゃい。どこ行こうか」
 微笑む車椅子の彼女は、とても愛おしく感じる。彼女の笑顔、声、性格、すべてが好きだった。
「どうしようか」
 少しどきどきしながら僕は言う。
 僕の目は彼女の姿を、僕の耳は彼女の声を。そのことしか感じられないかのようだった。いつの間にか暑さは感じなくなったし、セミの鳴き声も聞こえない。
 そこに存在しているのは僕と彼女だけだった。
「じゃあ、とりあえずいつもの公園で」
 彼女の返事を聞いて、僕は彼女の後ろに回った。
「それじゃ、行こうか」
 僕はゆっくりと車椅子を押し始めた。

「私、ね」
 公園に着いて、敷地内を散歩していた時のことだ。
 僕は彼女の綺麗な黒髪を眺めていた。彼女の頭を撫でてみたい。今までずっと一緒にいて、一度もそんなことをしたことがなかった。これから、そんな機会はあるのだろうか。僕たちはいつまでこのもどかしい関係のままなんだろう。
 そんなことを考えていた時の一言だった。僕はぐっと意識を引き戻された。
「え、なに?」
「……私、いつもごめんね」
「なにが」
「いつもこんな風にしてもらって。あの時だって」
「そんなことはいいって」
 あの時。いつのことだろうか。大抵はどうでもいいことだ。
 小学生の時に彼女がいじめられているのを止めたこと、中学生の時彼女が病院に行くのを送り迎えするために塾から全力で走ったこと、高校生に入ってから階段から転げ落ちそうになった彼女の身代わりになったこと。
 どれも大したことではない。愛する人を救うのは当然のことだ。
「それでね、私、足治るって」
「え?」
 このやり取りは何度かしたものだった。
「今度は信用できる先生だって」
 彼女はそう言ったが、希望を持っているようには感じられない声だった。彼女は何度も何度も騙されてきた。治ると言われ希望をいだいては、やはり無理だった、と告げられるのだ。それでも彼女は信じることをやめないでいようとしている。
 そしてこのやり取りを、何度も繰り返している。僕は決まって同じ返事をするのだ。
「そうか。今度は治ると良いな」
 彼女の足が治れば僕だって嬉しい。彼女の隣を歩けるのだ。
 顔の位置が近くなる。來華と一緒に歩ける。それは僕の願いだ。
 でも僕も、彼女と同じように、むしろ彼女以上に希望を持てなくなっていた。今回もまた、やはり無理だった、と言われるのではないだろうかと。
 彼女の心にだって限界はある。何度も裏切られて、彼女は人を信じられなくなってしまうのではないだろうか。一番つらいのは來華のはずなのに、彼女はそれでも治療の成功を信じようとしている。その内心はどうであれ、信じようと試みているように見える。僕はとうに信じることを諦めてしまったが、彼女は信じ続けなくてはいけない理由があった。
「なあ、來華。僕の前では正直でいいんだよ」
「……うん」
 彼女が頷いて、数秒の静寂が訪れた。僕は彼女の頭から目線を逸らした。うまくいかない。僕は彼女の拠り所でありたいのに。彼女が人間を信用できなくなっても、唯一信用できる人間に。
「治らないかもしれない。確かに、もう期待はしていないよ」
 彼女がゆっくりと言う。
「それでも、私は足を治したい。だから希望は捨てたくないの」
 言ってくれた。本音を僕にぶつけてくれた。車椅子のハンドルを握る手に力がはいる。
「そうか」
 僕は思う。そんな医者なら、今度はぶん殴ってやる。この嘘つきが、と罵ってやる。彼女を傷付ける人間は誰であろうと許せない。
「それでこの後病院に行かなくちゃいけないんだけど……」
 彼女が僕を見上げ言い淀んだ。いつものやり方だ。彼女はこうやって物事を催促する。彼女なりの気遣いなのだろうけど、僕にはもうすっかり分かっていた。
「ああ、そうなのか。僕暇になっちゃうな」
「じゃあ……」
「一緒に行こうか」
「うん……ありがとう」
 そういって來華は微笑んだ。彼女の笑顔は素敵だ。何を犠牲にしてでも守ってみせよう。僕も彼女に向かって微笑んだ。

 診察室。薬品の匂いに満ちている。嘘の匂いだ。彼らは、自分たちの汚さを薬品で落とし、自分たちの匂いを薬品で誤魔化している。
 医者というのは僕が嫌いな種類の人間だ。
 僕は知っている。彼らは、いつも決まった顔をして言うのだ。「力が及ばず申し訳ありません」と。皆同じ顔で。彼らは、決まりきった「申し訳なく思っている顔」をつくる。作り方が身に付いているのだ。
 それで許されると思っている、醜い打算的な人間たちばかりだ。彼らは患者を期待させたことについて、全く申し訳ないなどと思っていないんだ。
 だって、そうだろう。そうじゃなきゃ、來華の人生はなんだっていうんだ。來華は何度もその顔を見せられてきた。奴らは、人の気持ちを弄ぶ悪魔どもだ。彼女の心は、限界に近いんだ。
 僕が守らなきゃならない。
「さて」
 今回の先生は若い男性だった。端正な顔つきをしている。
 男の僕が見ても美男だと分かるほどだった。見るからに嘘くさい。
 人を外見で判断するのは良くないと言う人は多いが、外見は人を表すとも言う。彼の少しにやけた顔が、彼の性格を物語っているかのようだった。
「その少年は、付き添いかな? 恋人さん?」
「いえ……友人です」
「そう」
 突拍子もないことを言われ、僕は面食らった。恋人に見えるのだとしたら嬉しいが、そんなことは診察に関係ないことだろうに。
 なぜプライベートに立ち入りたがるんだろうか。
「何故一緒に? 何か気になることでも?」
「……彼女は、本当に治るんですか」
「治りますよ、本当に」
 彼はそう断言した。自信たっぷり、という風な声で。
「大倉さん――大倉來華さんがそれを望み、治療費を払っていただけるのなら、僕は医者として彼女を治します」
「今まで、彼女は何人もの人にそう騙されてきたんです。今度駄目なら……」
 そう言いかけて、僕は來華の顔を見た。彼女は俯いて僕達の会話を聞いていた。
「大丈夫。僕はそんじょそこらの医者とは違いますよ。同じような患者さんも見てきました。若くみえるかも知れませんが、僕は数十年この仕事をしていますから。まあ、それもほんの少しでしかありませんが」
「そう、ですか……」
 僕は少し安堵した。完全に信用しきる気はさらさら無いが、少しくらいなら希望を持ってもいいのかもしれない。
 診察室に置いてある柱時計の長針が、音をたてて時を刻んだ。
「でも、本当に良いんですか? 治してしまって」
 彼は本当に心配そうな声で唐突に言う。
「盲目の人の目を治したら、私が見たいのはこんな世界じゃない、と言い出したことがあるんです。治してしまうことで何か悪いことが起きるかも」
 何を言っているんだ、この人は。來華はずっと自分の足で立つことを望んでいたんだ。なぜそんなこと聞く必要がある。
 來華が俯きながら小さな声で言った。
「私」
 彼女は膝の上で手をぎゅう、と握りしめていた。顔を上げ、彼女は先生の顔を見据えた。
「私、自分で歩きたいんです。だから、治してください」
「そう」
 彼は短く言って、僕に向き直った。僕の顔をしげしげと見てから彼は口を開いた。
「あなたは? 彼女を治してしまって良いんですか?」
「今更何を言っているんですか。医者なら、患者を治すのが仕事でしょう」
「医者として、聞いているんですよ。新たな患者を生み出さないようにね」
 先生はふう、と息を吐いた。息がしづらい。僕は彼のことをじっと見据えていた。どうも怪しい。普通の医者はこんなことを言ったりはしないはずだ。僕のことが気に食わないのだろうか。なぜ僕に聞くんだ。
「彼女の足が治すことによって見たくないものまで見えてしまうかも」
「どういうことですか」
「いいえ、別に。ただの警告ですよ」
 先生が机に置いた鉛筆が、端に向かって転がり始めた。
 本当によくわからない人だ。詰まっていた息をやっと吐き出す。彼と話していると疲れる。どうして人を小馬鹿にしたような発言ばかりするのだ。
 僕は少し苛ついていた。
「とにかく、彼女のことを治してください」
「分かりました。お約束しましょう」
 彼は來華の方を向いた。
 鉛筆は転がり続け、速度を増していく。
「それじゃあ、ご両親によろしく。入院してからまた会いましょう」
 ついに鉛筆は机の端に到達した。僕は物理の授業を思い出していた。位置エネルギーは運動エネルギーにかわる。床へと飛んだ鉛筆が叩きつけられる音が、診察室に響いた。

「なんなんだ、あの先生」
 病院から出た途端、それまで抑えていた怒りがこみ上げてきた。
「ごめんね」
「來華が謝ることないだろ」
「私が付き添い頼んだから……」
「そんなの関係ないよ」
 だけども、今は彼に頼るしかないのか。あの自信のありげな口ぶりでは、彼以外に頼れる医者はそういなさそうだし。
 車椅子を押して歩きながら、僕は怒りを自分の中で消化しようとした。來華にぶつけてもしょうがない。彼女が歩けるようになるのなら、それで良い。僕がいくら気に入らなくても、來華の願いが第一だ。
「治ったらいいな……」
「……そうだな」
 きっと治るさ、などと無責任に言うわけにもいかない。
 それから別れるまで、会話はなかった。めまぐるしく希望と失望に襲われ、僕も彼女も疲れてしまっているのだ。
 口にせずとも、今回も駄目なんじゃないだろうか、と思っているのがお互いに分かっている。
 結局口を開いたのは彼女の家についた時、別れの言葉をお互いに言っただけだった。

 それから数日間、僕達はいつも通りの生活をしたが、どことなくぎこちなかったように思える。希望を持つから失望するのだと分かっていても、どうしても僅かながら期待してしまう。
 失望しないように、失望しないようにと希望を持たないようにしても、やはり期待してしまう。希望なしには人は生きていけないのだろうか。
 もし神様がいるのなら、頼みたい。運命に弄ばれて彼女が壊れてしまう前に、どうか彼女を治して欲しいと。
 日が巡るのは早く、手術の前日。既に病院に入院していた彼女の病室に僕は面会をしに行った。
「明日なんだよね」
「うん。数日間かけて、治すんだって」
「明日も来て良い?」
「うん。ありがとう」
 病室のドアをノックする音が響いた。
「あ、それじゃあもう帰るよ」
 僕は立ち上がり、出口に向かった。ドアを開けると來華の両親が立っていた。ノックしたのは彼らのようだ。
「ああ、頼斗君。いつもありがとうね」
 來華の母が笑顔で言う。僕は來華の両親のことを、あまり好きではなかった。
 來華の手術費を稼ぐため、と言って彼女を独りにさせている。気持ちはわかるが、來華はずっと寂しかっただろうに。それに、二人は來華の本心を分かっていない。彼女は本当はもう、期待できなくなってしまっているということ。それでも手術費を稼ぐ二人の為に、期待しているふりをしていること。
 來華の両親は、彼女に余計な負荷をかけているのだ。
 僕は二人に道を開けた。
「手術、成功するといいですね。失礼します」
 病院の廊下は、ひんやりとしていた。薬品の香りだ。
 今回もやはり駄目なのかもしれない。
 だけど大丈夫だ。彼女が立てなくたって、僕はいつまでも彼女の味方でいるのだから。

 To be continued.
 
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13.06.20 環道遊星
13.07.16 加筆修正
				

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