初恋の人

 初恋は高校生のときだったと記憶している。高校生以前にも好きな人と聞かれれば答える程度のひとはいたけれども、それまでの恋というやつはただの憧れだったりその場のノリであったり空気を読んでの発言で、今考えればおおよそ恋愛と呼べる代物ではなくあの頃好きだったはずの女の子の声も、顔ですらおぼろげにしか記憶してはいない。とにかく、恋愛という恋愛をしたのは高校生のときだった。
 当時高校生だった自分とかの人の出会いは何の変哲もない、廊下での出来事だった。出来事というほどのことでもないかもしれない。ただ単にすれ違っただけだ。それはいわゆるひと目惚れというやつで、それまでそんな都市伝説みたいな恋愛の始まり方なんてないだろうとタカをくくっていた自分の心臓をその人は華麗に打ち抜いていった。すれ違った彼女の顔は今でも鮮明に思い出せる。色の白い、整った顔立ちのひとだった。

「ねえ、なに考えてるの」
「なにも」

 高校を卒業してからしばらくして、当時の友人たちと会えばみんな口をそろえて言った。「お前、変わったな」。自分でもそう思っている。少なくとも、当時の、高校生のときの自分は自分が将来このようになることは想像していなかっただろうと思う。いや、本当に全くしていなかった。
 あまったるいにおいを振り撒いてあまったるい口調で俺に構う彼女は、二月ほど前に自分の彼女というポジションにおさまった女だった。何度も染めて傷んだ髪、化粧ばっかりが派手で碌に手入れのされていない肌、まじまじと見つめると粗がいくらでも出てくる女だったが、彼女にするには手軽で扱いやすい女だった。小さなことですぐに怒り機嫌が悪くなるけれども、愛してるなんてことばひとつで、キスひとつでおとなしくなってくれるのだから。

「うそつき」
「ほんとだって」

 今日はいやに絡んでくるんだな、と喉まで出かかったことばを飲み込んで脱ぎ捨てられたズボンを拾って履いた。「ねえ、」彼女が非難めいた声をあげる。

「もう帰るの」
「帰る」

 ピンクと白のごちゃごちゃした、シンプルとは程遠い家具に囲まれたベッドの上で口を尖らせる彼女はもう、「あたし、アキラくんのこと好きなの」と告白してきたときの可愛げはなくなってしまった。彼女のことが特別好きという訳ではなかったけれども、付き合っても良いと思えるほどであったのに。

「……最近冷たい。アキラくんもうあたしのこと好きじゃないの」

 思わず溜め息が漏れ、やばい、と思った瞬間にはもう遅かった。後ろから罵声とともに枕が飛んできて背中に直撃。

「どうせあたしなんてセックスできればそれでいいんでしょ!」

 違う、と言いかけたところで「もういい!早く帰って!」と涙声で叫ばれ自分の持ちこんでいた物を残らず投げられて、部屋の外へと押し出された。すぐに部屋の鍵が閉まり、廊下に放り出されたまま暫くの間呆然とした。ああ、またやってしまった。


 抵抗すれば普通に振り返って彼女に向き合うことも抱き締めて愛をささやくこともできたはずなのに、それをしなかったのは彼女のことが本当の意味では好きでなかったからなのかと、投げられたシャツに袖を通しながらぼんやりと思う。この恋ももうそろそろ終わりだろうか。取り敢えず鞄を拾い、彼女の部屋をあとにした。最後まであまったるいにおいが鼻をついていた。
 好きじゃないわけじゃない、とは思う。セックスができればいいだけではない、とも思う。確かにそれ目当てが微塵もないという訳ではないけれども。どんな人に告白されて付き合うことを了承しても、どうも好きと言い切る勇気はなかった。口先だけではいくらでも言えたし、それに満足そうな彼女の顔を何度も見てきたし、付き合っている間は確かに楽しかったと言いきれるけれども、何故だか最終的に「アキラくんってわたしのこと好きじゃないでしょ」と言われて終わった。今まで付き合ってきた女たちは、付き合っている相手が自身を愛していないことが分かる能力の持ち主だったのだろうか。 家に着いてから携帯が震えた。開くと着信メールが3通たまっていて、最新のメールは彼女からのもので、「あたしのこと嫌い?」というそれだけの文面だった。直接顔を合わせない文章だけのコミュニケーションでしおらしく、おとなしく素直になるところは好感が持てる。唯一そこは好きだと断言できた。
 彼女からのメールになんて返そうかと思案したまま数時間がたち、考えている間に二通の着信メールを読み終えて一通に返信をして、もう一通が女子中学生とエンコーしませんかという内容だったので削除した。そして今度は彼女から電話がかかってきて、少し取るかどうか少し迷ったあとやっぱり取った。彼女は自分を部屋から追い出したときと同じように涙声で、受話器から聞こえる声はぐすぐすと鼻をすする音がまじって聞き取りづらい。

「……あたしまだ好きなの」
「うん」
「アキラくんは、あたしのことすき?」

 どうしてそんなこと聞くんだ、と言ってやればよかったのに口から出たことばはそれとは程遠い、「分からない」それだけだった。自分のそのことばを聞いて彼女はついに電話を通してでもどんなに凄惨に泣いているか分かるほど泣き崩れて、もはや何をいっているのか分からなくなってしまった。それから暫くぐすぐすと何か言っていたけれども話に特に何か進展があるわけでもなく、聞き取れたことばといえば「どうして」くらいのもので、そろそろ疲れたから切りたいとぼんやりと考えて、俗にいう別れの状況だというのに相当に冷静な自分はやっぱり彼女のことを好きじゃなかったのだろうか。自分が黙っている間に聞こえてくる彼女の声はだんだん細くなり、暫くの間ふたりの間に沈黙がおりた。すう、と彼女の呼気だけが聞こえる。

「アキラくんはどうしてあたしとつきあおうと思ったの。好きじゃないの。好きじゃなくても好きになってくれるんじゃなかったの。それが付き合うってことじゃないの……」
「……」
「黙ってるだけじゃわかんない……」
「分からないんだ」
「何が?」
「何が分からないのかも、分からない」

「何それ」と彼女が電話口で軽く笑うのが聞こえた。相変わらず涙声で聞き取りにくかったけれども、そのことばはなんだか大きくはっきり耳に届いた。

「やっぱり、アキラ君はあたしのこと好きじゃないよ」


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12.08.14 充

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