青木樹里亜の逃避行(1)

 頭上に感じる痛みに目を開けた。
  あぁ、ここは私のクラスだ。毎日見続けて、もう見飽きた風景だ。
 すぐ隣に立つ担任の先生が私に向かってぶつくさ何かを言っている。クラスメートたちのクスクス笑う声が聞こえる。
  先生、私は寝ていたわけではありませんよ。ちょっと俯いていただけです。
  黒板の問題なら解けますよ。でも、解きたくないんです。
  優等生でいたら、みんなが私を忌み嫌うから。
  少し可愛くて頭も良いからって調子に乗ってんじゃないわよ。だとか、どうせ俺たちのこと馬鹿にしてるんだろ? だとか、そんなことは全く思っていないのに、みんながそう決めつけるんです。

  じゃあ、私は……馬鹿で不細工な子に生まれれば良かったのかな。


 ※※※


 嫌な夢から覚めた私の耳元で、エンジンが低く唸り声をあげていた。
 妙に心地いいその重低音の中でまどろんでいると、私を乗せた車はその車体を大きく揺らして止まる。
 その振動で完全に目を覚ましてしまったらしく、再び眠りにつこうとするもあの幸せな感覚は戻って来ない。運転席を恨めしげに睨みつけるが幸いにも誰もこちらを振り返ったりはしなかった。内心でホッと息を吐く。
 やがて運転席と助手席のドアが開いて、2人の男がそれぞれ車を降りた。外から流れ込んできた10月の夜風は冷たく、寝起きの私は思わず身震いする。
 2人いた男のうち、助手席側の1人は車を離れていったようだ。もう目的地に着いたのだろうか。左の窓から外を覗いてみようとするが、後部座席に横になった状態では真っ暗な夜空しか見えない。
 その空に無数に散りばめられた星たちは生まれも育ちも都会の私にとって初めての「満天の星空」で、思わず感嘆の息を漏らすとともに、自宅から遠く離れたところにいるという実感は私の胸の鼓動を高まらせた。

 ところでここはどこなんだろう。具体的にはどれくらい遠く離れたのだろう。両親やクラスメート達からどれくらい遠ざかることができたのだろう。
 やがて浮かんだいくつもの疑問は私に底なしの好奇心を芽吹かせ、寝起きの気だるさなど関係なしに私の身体を起きあがらせる。
 暗い窓の外をそっと覗いてみると、途端に瞳に飛び込んできたのは眠たそうにまばたきを繰り返す2つの目だった。
「ひゃ!?」
 やけにリアルなその双眸は無論、窓に移った私自身の瞳ではない。
 反射的に座席に突っ伏した私は、そのまま寝たふりを決め込むことにした。しかし頭上から聞こえたドアの開く音に身体が自然と跳ね上がってしまう。
「驚かせてしまってすまない……」
 頭上から降ってきた声は想像していた威圧的なものとは違い、どこか頼りないものだった。
 黙って寝たふりをし続けるべきだろうとは思ったものの、私が起きていることはもうバレてしまっているようだし、結局今まさに目が覚めた風を装って薄目を向ける。
 細い視界から見えたその顔は見た瞬間こそ覚えがなかったものの、この車に連れ込まれた時に運転席に座っていた男だとすぐに思い出した。
「怯えなくてもいいよ。べつに、君に何かしようってわけじゃないから……」
 男は相変わらず弱腰な口調でそう言うと、困ったように苦笑した。
 そんなことを言われたって信用できるはずもなかったが、男もそれはわかっているようで「まぁ信じられないよね」と頭を掻きながらつけ足す。
 その姿がどういうわけかおかしく見えて、私は思わず噴き出してしまった。
「な、何かおかしかったかな……?」
 尚も頭を掻きながら挙動不審に訊ねてくる彼は、まるで妻の尻に敷かれた夫のようにも見える。
「いや、ちょっと、あなた変わってるなーって思って」
「そ、そうかな……?」
「なんていうか、誘拐犯っぽくないわ」
 自分でそう言いながら思い出した。そういえば私は今、誘拐されているのだ。
 必要最低限のものだけを詰めたバッグを持って自宅を抜け出したのが深夜0時。それから当てもなく繁華街を歩き続けて、ちょっと人気の少なくなったところでこの男たちに捕まって、今はいないもう1人の男――目の前の彼よりもずっと犯罪者めいた顔つきだった――に半ば無理やり車内に連れ込まれた。
 今、運転席横のデジタル時計には2時17分と表示されているから、あれから約2時間が経ったということか。
 まぁその2時間のうちの半分以上は慣れない深夜外出の影響かぐっすり眠ってしまっていたので、何があったかはわからないのだが。

 さて、ところで目の前の男はというと、私からの指摘を受けると相変わらず困ったように頭を掻いた。流石にもう噴き出すことはないが。
「らしくないとはよく言われるよ。でも、僕は誘拐犯だ。まぁこの業界に入ってまだ間もないから仕方ないかもしれないけど」
 業界に入って……ということは何かの組織に入っているのだろうか。
 まるで都会に乱立する会社の1つに勤めているかのような言い方で誘拐犯を名乗るこの男に、私は違和感を感じずにはいられなかった。
 よくよく見てみるときちんと整った髪型やスーツ姿の全身は、大手町のオフィス街にいてもおかしくない典型的なサラリーマンのようだ。
「ところで、」
 尚も男の姿を訝しげに観察していると、彼は唐突に、先刻とは打って変わった見た目通りの真面目な様子で切り出した。
「僕には、君の方がよっぽど変わっているように思うんだけどな」
「……どういう意味?」
 多少威圧的に問いかけてみるが、彼はまるで動じる様子はなく私の質問に答える。
「誘拐されているというのに君はやけに冷静だ。僕はこの業界に入ってまだ2年程しか経っていないが、こんなターゲットに出会ったことはなかったし今までにもいなかった」
 最後のは同僚に聞いた話なんだけどね。と付け足して苦笑する。
 そして、さらに一呼吸入れてから彼は私にこう告げた。
「だから、僕は君に少し興味があるんだ」


  ―続く―

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